図書館で調べ物をしていたら、四年生のI君に遭遇。見た目は東西問わずやんちゃなイケメン風に見えるのだが、中身は生粋の山猫人である。その彼は大学卒業後、経済方面でアメリカの院進学を考えており、先日3週間ほどリサーチを兼ねてニューヨークに滞在したという。
「なんかちょうど共和党大会のあった時だったんで、スゴかったんすよ、街が。もーオレ、あんな場所じゃ落ち着いて勉強できねーッて思いました」
なんたる純朴さ(笑)。そうだよ、I君、その通り。勉強は落ち着かないと出来ないよね。どのみち単位の関係とかで、彼はむこうで四年に再編入してもう一回どうのこうのしなければならないということ。まずは街として落ち着いたWashington, D.C.で学ぶことを検討しているという。がんばれがんばれ。
I君は、嬉しそうに近況報告をひとしきりした後、本を抱えたまま助手と反対側の席に戻っていった。
その後助手は、引き続き専門外のややこしい調べ物に帰る。キリスト教は、キリストという人間の形を取ったが故に十字架の苦しみを味わうことになる、己を徹底的に捨て去ることにより人を救う、つまりこれは「絶対有」をもちながら西田幾多郎の「絶対無」に通じるのではないか、さらにこの「絶対無」は、第二次大戦時の日本の侵略性を支えたと一般的にはされているが実はアジア全体に共通する価値になる、もしくはならない、さあドッチ?...あがペーッッ!!