最近とあるウエブ上で自分の好きなもの、おすすめリストなどを作っている。可視化されたことで明確になったには、それらはすべて自分にとっての成長過程・自己形成の過程を示している、ということであった。他人に何かを勧めたいわけではない。ただ自己確認の作業を黙々と行っていたわけである。
 人間は純粋に「我思うゆえに我あり」という存在ではない。「自分」を確立する過程で、絶え間なく周囲からの関与・観察・干渉などを受け、それに対して反応・反抗・順応など様々なパターンを通じて成長していく。子供の頃、「○○ちゃんは、赤ちゃんのころこんな赤ちゃんだったのよ」等と言われて妙に嬉しかったように、人の成長に他人は欠かせない存在である。それは親子・親戚を関係を離れた存在が広がるほどに「自分」は広がり、深まる。高度成長期以前の日本社会であれば、公教育の場以外では地域共同体がその役割の一端を担っていたと言える。「オマエは昔悪ガキだった」とか「昔から賢い子だった」等、親兄弟以外に自分の成長と人格形成に愛情や関心を注いでくれる存在が「自分」(本当は不確かで良くわからないもの)を、支えてくれる。
 高度成長期以降、人々は故郷を離れ、職場も住居も転々とし、それに伴い人間関係は不断に刷新されていく。グローバリゼーションの進んでいる現代では、人口数千人の東北の寒村の住人だって、スキー客が去った後にはハワイに骨休めに旅立つ。村や町も、大都市でさえ去年とまったく同じであるという保証は無い。昔、ここで隣に住んでいた人も引っ越してしまった。だからといって「昔はすべて良かった」というノスタルジーに浸っていては現代を生き抜いていくことは出来ないし、自分自身もそういう行為は選ばない。どんな形であれ変化は受け入れていくしかない。
 このように「自分」を確認してくれる場所や人がもはや実体として存在しないからこそ、「家族」ですら現代では十全に機能し得ないからこそ、それを「モノ」で確認する必要があるのだ。。リスト上の好きな本、感動した映画、音楽etc....。
 電脳世界に潜む欲望は、犯罪が起きたときに単純化して語られる「出会い系サイト」の欲望以上に、切実な問題が潜んでいる。